サー・アーサーの「独身の貴族」におけるエラー
サー・アーサー・コナン・ドイルといえば、所謂シャーロック・ホームズ・シリーズの著者として名高い。もっとも、本人はホームズ物で知られるのをあまり好まなそうだから、『大ボーア戦争』、『失われた世界 』、『ジェラール准将の冒険 』という古典的名著をもあげておこう。
しかし、やはりもっとも魅力的なのは、シャーロック・ホームズ・シリーズ、もっと言えばその舞台となった、後期ヴィクトリア朝-エドワード朝ロンドンを中心とするその舞台設定であろう。そして、ホームズはその生家や兄のマイクロフトを通じて、上流階級に非常に強いパイプを持つ中流階級である。且つ、その性格からか下層階級の人間にも嫌われていない。というわけで、ホームズにおける依頼人は上中下の階級から様々な人物が登場し、また脇役やちょい役の階級も雑多であり、それがより物語を魅力的にしている。
したがって、ホームズ・シリーズには、ボヘミアの国王から、ヴィクトリア女王の代理人から、准男爵やらいろいろな貴族・紳士階級の人間がでてくる。ここでは「公爵の次男」という肩書きの人物が依頼人である「独身の貴族」(原題: 'The Adventure of the Noble Bachelor’)をとりあげ、彼の称号の誤りについて考えてみよう。
訳題及び内容のあらすじおける固有名詞は阿部知二訳創元推理文庫刊『シャーロック・ホームズの冒険』収録の「独身の貴族」による。阿部氏の訳ははっきり言ってあまり良くない。誤訳もあるし、致し方ないが日本語も古いし、変な日本語もある。しかし、私の手元にはこれしかないし、あらすじと一部の訳だけに用いて内容は英語版を参照するので問題は無かろう。英語版はProject Gutenbergにおけるe-text/html版を利用する。
「独身の貴族」の冒頭にセント・サイモン卿から依頼状がホームズに届く。セント・サイモン卿はイングランド一流の名門で、自身の結婚式中に失踪した花嫁捜索に関する依頼である。彼自身バルモラル公爵の次男で、「地は空色、黒い中帯の上方に三個の藜鉄を配す」紋章を帯びる。プランタジネット王家の直系で、母方にはチュードル王家 (sic) の血が入る。花嫁はアメリカ、サンフランシスコの富豪アロイシアス・ドーランの娘ハティ。結婚式はハノヴァー・スクエアのセント・ジョージ教会でごく身内で行われ、親しい友人だけが参列した。その結婚式の披露宴の途中で花嫁は失踪した。
以上が簡単なあらすじである。この物語の結末はここでは関係ないので省略する。まず、上記とかぶる部分があるが、依頼人のことを称号に関係する点を作品中から抜き出そう。以下は正確を期すため主に英語で称号を記す。
- Lord St. Simonと呼ばれている。
- ホームズが調べた参考図書ではフル・ネームのLord Robert Walsingham de Vere St. Simonで項目がたてられている。
- 事件発生を知らせる新聞記事で’Lord Robert St. Simon’と書かれている。
- ホームズへの依頼状で’St. Simon’と署名している。
- The Duke of Balmoral次男。
さて、とりあえず、これだけ列挙しただけでサー・アーサーの混乱ぶりがわかる。まず、彼は公爵の次男である。従って、通常’Lord + Forename (+ Surname)’で称されるべき人である。ということで、いきなり、二番目と三番目が正しく、一番目の’Lord St. Simon’という呼称が誤りである、ということになる。四番目の署名に関しては正しい。公爵の余子(長子以外の男子)は、’Firstname + Surname’もしくは’Surname’だけの署名をする。
では、’Lord St. Simon’と言う呼称はどうか。’Lord’の後に付くのは「名」か「領地名/姓」のどちらかである。前者の場合、公爵/侯爵の余子である。しかし、ホームズの引っ張り出してきた赤色の表紙の参考書(何となくBurke’sっぽい)の記事(二番目)によると、あくまで’St. Simon’は姓である。しかし、姓だとすると、それは長子の儀礼称号となってしまう。すなわち、The Duke of Balmoralの次位の爵位は’St. Simon’という姓(ひょっとしたらこの姓の元となった地名)を関する称号と言うことになる。しかし、これはその参考書の’Lord Robert Walsingham de Vere St. Simon’に矛盾する。しかも、彼は明確に次男である。
なら、継嗣は誰か。件の結婚式を伝える記事の中に次のように書かれている。
no one being present save the father of the bride, Mr. Aloysius Doran, the Duchess of Balmoral, Lord Backwater, Lord Eustace and Lady Clara St. Simon (the younger brother and sister of the bridegroom), and Lady Alicia Whittington.
列席者は花嫁の父君アロイシアス・ドーラン氏、バルモラル公爵夫人、バックウォーター卿、花婿の令弟ユースタス卿、同じく令妹のクレアラ・セント・サイモン嬢、およびアリシア・ウィティントン嬢だけであった。
ここで見る限り、The Duke of Balmoral自身は出席していない。そして、公爵夫人と弟および妹の間に記されている’Lord Backwater’が公爵の長男で継嗣であると思われる。それから考えると、The Duke of Balmoralの副次的称号はBackwaterを領地名に持つものとわかる。それが侯爵であるか、伯爵で在るか、といったことは断定できない。
では、友人であると思われるLady Alicia Whittingtonの様にLord Backwaterも友人であるとは考えられないだろうか。ぱっと見たところ彼を兄とする直接的な表現は作品中にない。
しかし、件の人物にホームズをいわば紹介したのがLord Backwaterであるし、結婚式後しばらくBackwater家に滞在することになっていたことからも、単なる友人とは考えにくい。しかも、公爵自身が結婚式に出席していないようなので、継嗣である彼がいわば公爵代理の様な立場であるようにも思える。
もし、仮にLord Backwaterが友人だったとしても、それならば長男はどこか、という話になる。万が一長男が早世していて、件の人物が次男でありながらも継嗣になった可能性はどうだろうか。それだとするなら、ホームズが参考にした書物に、’son and heir'(子息で継嗣)という語が含まれているはずである。わざわざ「第二子」と書いて、他に継嗣がいるような表現は取らない。実際、ホールダネス公爵の幼年の継嗣が失踪する「プライオリ・スクール」(原題:’The Adventure of the Priory School’; 『シャーロックホームズの生還』[The Return of Sherlock Holmes]収録)では:
Heir and only child, Lord Saltire.
というように継嗣であることを明確にしている。『恐怖の谷』の年鑑に関するエピソードからいっても、ホームズが最新版の参考図書をそろえていないとは考えにくい。というわけで、彼は継嗣ではない、と言える。
このように、どのように転んでも、依頼人は、本来呼ばれるはずのない行為の身分でよって称されていることになる。Lord Robert St. Simonにとって、Lord St. Simonと呼ばれるのは、過ぎたものである。今よりも称号が身近であったはずのヴィクトリア朝の人で、知識人層であったはずのサー・アーサーがこのようなエラーを起こしているのが興味深い。もっとも彼はいろんな意味でエラーが多い人だが
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