王族の爵位についてちょっと考える Part II
Part Iにおける爵位を持つ王族のリストを改めて見てみましょう。
さて、Lucius氏も指摘しておられるように、ウェイルズ公とサセックス伯爵は別として、現在すべての王族の爵位が、Duke, Earl, Baronという構成になっていることにお気づきになるかと思います。サセックス伯爵がBaronではなくViscountを持っていることから、時に法的に決まっているわけではないことが類推できます。では、どういう意味があってこうなっているのでしょうか。
一番考えられて説得力のある理由は、Duke, Earl, BaronがそれぞれMarques, Viscountよりも英国史において古く由緒がある、ということです。Dukeはそもそも王族に対して与えられるものでしたから当然ですが、Earlは英国ではもっと古い称号とされますし、Baronも封建時代からの由来があります。したがって、王族に対する爵位としてはこの三つが適当であると考えられているのでしょう。
次の考察に入る前に、王族に対する爵位をあげてみましょう。ヴィクトリア女王即位以後。’The Prince of Wales’ならびに’The Duke of Cornwall and Rothesay’のみの人物は省いています。また、退位後のエドワード八世の爵位The Duke of Windsorも省いています。
- Edward (エリザベス女王三男) 1999
- The Earl of Wessex, and Viscount Severn
- Andrew (エリザベス女王次男) 1986
- The Duke of York, Earl of Inverness, and Baron Killyleagh
- Philip (女王の夫) 1947
- The Duke of Edinburgh, Earl of Merioneth, and Baron Greenwich
- George (ジョージ五世四男) 1934
- The Duke of Kent, Earl of St. Andrews, and Baron Downpatrick
- Henry (ジョージ五世三男の次男) 1928
- The Duke of Gloucester, Earl of Ulster, and Baron Culloden
- Albert (ジョージ五世の次男; 後ジョージ六世) 1920
- The Duke of York, Earl of Inverness, Baron Killarney
- George (エドワード七世の次男; 後のジョージ五世) 1892
- The Duke of York, Earl of Inverness, Baron Killarney
- Albert Victor (エドワード七世の長男) 1890
- The Duke of Clarence and Avondale, Earl of Athlone
- Leopold (ヴィクトリア女王四男) 1881
- The Duke of Albany, Earl of Clarence, Baron Arklow
- Arthur (ヴィクトリア女王三男) 1874
- The Duke of Connaught and Strathearn, Earl of Sussex
- Alfred (ヴィクトリア女王次男) 1866
- The Duke of Edinburgh, Earl of Kent and Ulster
- Albert Edward (ヴィクトリア女王長男; 当時ウェイルズ公) 1850
- The Earl of Dublin
これからヴィクトリア女王以降の王族に授爵される爵位のパターンとして主に:
- Duke, Earl, Baron
- Duke, Duke, Earl
- Duke, Earl, Earl
の三つがあると言えます。何故、ヴィクトリア女王の次男が伯爵二つで、三男が公爵二つなのかとか、こういうパターンについて考えてみると面白いかもしれません。私としては、1866年にAlbert Edwardが条件付きながら正式に’Reigning Duke of Saxe-Coburg and Gotha’への継承権を破棄し、弟のAlfredが行為の第一継承者となったことが関係しているように思います。
もう一つ注目すべき点は、その領地名です。その領地名がどこから取られているか。
上記のリストの順に、イングランド(E)、スコットランド(S)、アイルランド(I)、ウェイルズ(W)の別を記してみよう。
- 1999 Wsssex/Severn
- E/W
- 1986 York/Inverness/Killyleagh
- E/S/I
- 1947 Edinburgh/Merioneth/Greenwich
- S/W/E
- 1934 Kent/St. Andrews/Downpatrick
- E/S/I
- 1928 Gloucester/Ulster/Culloden
- E/S/I
- 1920 York/Inverness/Killarney
- E/S/I
- 1892 York/Inverness/Killarney
- E/S/I
- 1890 Clarence/Avondale/Athlone
- E/S/I
- 1881 Albany/Clarence/Arklow
- S/E/I
- 1874 Connaught/Strathearn/Sussex
- I/S/E
- 1866 Edinburgh/Kent/Ulster
- S/E/I
- 1850 Dublin
- S
このように、主にイングランド、スコットランド、アイルランドの地名から一つずつ選ばれているのがわかります。おそらくこれは、’Union’を象徴してのものだと思われます。
1947年のエディンバラ、1999年のウェセックスがそれぞれ、メリオネス及びセヴァーンというウェイルズの地名を用いた爵位を有している、ということが例外としてあげられるでしょう。これはおそらく、そのときの事情が関係しているように思われます。
1947年のアイルランド事情といえば、1937年の独立および1949年の英連邦よりの離脱、という反英的な施策の行われた間にあたります。また、独立以来最初の王族(に准ずる人)への授爵となります。このことから、時の国王ジョージ六世としては、アイランドを刺激しないようにする必要があったのでしょう。それ故に将来の女王の夫に対する爵位にアイルランドの地名を含めない必要がったのだと私は思います。
ウェセックスに関しては、爵位のフォーマットが異なるので、一概には言えませんが、1999年というのがウェイルズ議会が設立され、ある程度の自治権がウェストミンスターから移譲された年であることが重要であるように思えます。Government of Wales Act: 1998年; National Assembly for Wales (Transfer of Functions) Order: 1999年; 権限移譲: 1999年7月1日。ウェセックス伯爵授爵が1999年6月19日ですから、それを念頭に置いてのものと考えて良いと思われます。となれば、あらためてイングランドとウェイルズとの’Union’を強調するためかもしれません。
それまでウェイルズの地名が用いられていないのは、イングランドとウェイルズは昔から行政区的に’England & Wales’として合同されていたからであろう。
上記のリストの最後に、ぽつんと、’Earl of Dublin’がある。奇異に思われるかもしれない。授爵されたのは、当時のウェイルズ公であるPrince Albert Edwardである。ヴィクトリア女王の長子である彼は、現在のチャールズと同じく、’HRH The Prince of Wales, Dukes of Cornwall and Rothesay, Earls of Chester and Carrick, Baron of Renfrew, Lord of the Isles, Great Steward of Scotland’である。この称号が、イングランドとスコットランドの称号を(ウェイルズのも)含んでいても、アイルランドのものを含んでいないことに注意しなければならない。ヴィクトリア女王は一家の慣習として、アイルランドの領地名を爵位に含めるように、あえてダブリン伯爵に封じたのであろう。おそらく当時のアイルランド政策も関係したように思われる。
さて、続く予定のPart IIIでは英国の継嗣の称号について考えてみたい。
深く追究すると本が1冊(もっと?)書ける位の内容になりそうでうね。