フィリップ殿下の称号および帰化の問題
英国のエリザベス2世女王の夫君はHRH The Prince Philip, Duke of Edinburghです。
確認までにここに含まれる継承と称号とを分解してみますと、’HRH’ 、’Prince’、’Duke of Edinburgh’です。
さて、エディンバラ公は1957年にLetters Patentにより’Prince of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland’に叙されました。しかし、夫妻が結婚したのは、女王がまだエリザベス王女だった1947年の11月の事です。何故10年たって’Prince of the UK’に封ぜられたのでしょうか。
エディンバラ公爵殿下の’Prince of the United Kingdom’
新郎は結婚式の前日に’Duke of Edinburgh’、当日の式の直前に’Royal Highness’の敬称を与えられました。しかし、’Prince’には叙されませんでした。じつは、バッキンガム自体がうっかりしていました。むしろ勘違いといった方がいいかもしれません。’HRH’をさえ授与していれば、’Prince’をも授与したようなもんだろう、と思っていたようなのです。
しかし、系図学者などから疑問の声が上がっていたこともあり、女王即位後5年たった1957年になって、ようやく’Prince’に叙されたのです。その際「間違いを正すため」という理由が発表されました。
では、それまでエディンバラ公は’Prince Philip’ではなかったのでしょうか。1957年以前にも、バッキンガムがミスしているぐらいですから、Prince Philipと書いている文書も公私を問わずあるでしょう。実はこれはいろいろ議論のあるところです。
フィリップ殿下はギリシア・デンマークの王族である’Prince Philippos of Greece and Denmark’として生まれました。つまり、生まれながらにして’Prince’な訳です。もちろん、’Prince of Greece and Denmark’です。一般的には、’Prince Philippos’が1947年2月に英国に帰化し、英国籍を取得したことによって、’HRH Prince of Greece and Denmark’という称号を放棄し、Philip Mountbattenという名を取った、というように知られています。この説を採れば、1947年以降1957年以前に’Prince’と称するのは誤り、ということになります。
しかし、これにはいろいろ異論があります。
フィリップ殿下と’Prince’の身分
ソフィア帰化法(1705)
まず、Prince Philippos of Greece and Denmarkは、そもそも
サウスアイランド公の「女性君主の配偶者」という記事のコメントで、AMU氏がお読みになった本にハノーファー選帝侯妃ソフィーの子孫の資格で英国籍を取得し,出生による王族の権利を放棄した
とあった、と述べておられます。しかし、当該法には次のように書かれています。邦訳は『歴史文書邦訳プロジェクト』より引用。
〔一.〕前記王女ゾフィア―ハノーヴァー選帝侯・公太妃―およびその子孫およびその血を引くすべての直系の人物は,すでに生まれている者も今後生まれくる者も,本王国の国民であり,それは前記王女およびその子孫およびその血を引くすべての直系の人物がすでに生まれている者も今後生まれくる者も本イングランド王国の国内にて生まれたかのごとくであるものとする.
要するに、条件に該当する人物は、生まれた段階で英国民である、ということになります。ということはPrince Philippos of Greece and Denmarkは生まれついての英国民なので、わざわざ帰化する必要がないのです。従って、本来は、フィリップ殿下は英国民だから、英国籍を取得する必要がないため、それを理由として出生による王族の権利を放棄する必要もない、ということになります。
しかし、何でこんなややこしいことになっているのでしょうか。
実は、どうやら1947年当時、そんなカビの生えたような法律はみんな忘れていたようなのです。これがクロースアップされたのは、1951年にPrince Ernst August of Hannoverが英国籍の確認を求めて英国の裁判所に提訴したときです。
ソフィア帰化法に再注目したハノーファー王家の訴訟
この人物は当時ハノーファー王家の当主の継嗣で、ジョージ3世の五男でヴィクトリア女王の叔父に当たるPrince Ernest Augustus, Duke of Cumberland (後にKing Ernst August of Hannover)玄孫に当たる人物で、1953年に父親の死により当主の座に着いています(すなわち、 Titular King of Hannoverでもある)。
この家系は、ずっとDuke of Cumberland & Teviotdaleという英国の爵位と’Prince of Great Britain and Ireland’という称号を、’King of Hannover’および’Duke of Brunswick and Lüneburg’とともに男系子孫として伝えてきましたが、1919年に英国枢密院の命により英国の爵位称号を剥奪されました。
このとき、すでにハノーファーはすでに併合されていました。最後の国王であるKing Georg V of Hannoverの長子でハノーファー太子であったCrown Prince Ernst August of Hannoverが当主として健在でしたが、ドイツ帝国下の領邦であるDuchy of Brunswick and Lüneburgは1913年に継嗣のPrince Ernst August of Hannoverに譲位していました(ハノーファー当主の座は父親の死後の1923年に継ぎます)。で、問題のひとは、この人の長男のPrince Ernst August of Hannoverとなります。
さらにこの人の長子で現当主も’Prince Ernst August of Hannover’だったりしてややこしすぎるので、三番目の洗礼名も入れて、それぞれ:
- Crown Prince Ernst August Wilhelm of Hannover
- Prince Ernst August Christian of Hannover
- Prince Ernst August Georg of Hannover
- Prince Ernst August Albert of Hannover
と記すことにします。
さて、この年代が示すとおり、これは要するに第一次大戦時の話で、敵国ドイツの人間であるということが最大の理由です。しかし、1951年に、当時ハノーファー王家当主継嗣であったPrince Ernst August Georg of Hannoverが英国籍の確認を求めて提訴しました。彼は1914年生まれですから、この法が有効な時の生まれであり、明らかにゾフィア選帝侯妃のプロテスタントの子孫ですから、「生まれながらにして英国籍である」という事を主張したのです。
上記の『歴史文書邦訳プロジェクト』の「帰化法 (1705)」のページにも解説が一寸載っていますが、結局1956年に下された最高裁である貴族院の判断は原告勝訴でした。したがって、1919年の枢密院令がSopha Naturalization Actに対して不法であり、Prince Ernst August Georg of Hannoverのみならずさかのぼっても英国民であるということになりました。したがって、1919年に剥奪された称号は今も称していますし、爵位も潜在的には取り戻す可能性があります。
というようにこの裁判でSopha Naturalization Actが取り上げられたために、エディンバラ公のことが注目されることになったのです。
}}
フィリップ殿下と帰化の問題
で、今から考えるとエディンバラ公は帰化する必要がなかったわけですが、実際に帰化の手続きをしてもいるようです。で、その帰化は有効か否かという問題もありますが、Mountbatten姓を採ったという事実はある意味で有効なわけです。どのみち姓を改称するのは、英国ではそう難しくありません。
では、その時点で’Prince of Greece and Denmark’をも放棄したという話が有効か・事実かというと、難しい問題になります。帰化が有効だとすると、称号を放棄した可能性も高い、と考える向きもあるかもしれません。ですが、Sopha Naturalization Actによって、そもそも帰化する必要もなかったので、帰化する必要がなかった、よって帰化自体が「無かったことになる」と言うこともあるかもしれません。
しかし、もっと内容のある説は、「英国の帰化手続きが’Prince of Greece and Denmark’という称号に何ら影響を及ぼすことはあり得ない」というものでしょう。何故かと言えば、’Prince of Greece and Denmark’と言う称号がギリシア法に基づくもので、英国法に基づくものではない、ということです。ですので、従って、英国法に基づく帰化手続きが、外国の法に基づくものである外国の称号をどやこやする事はできない、ということになります。したがって、Prince Philippos of Greece and Denmarkがその称号を放棄するには、帰化手続きによる喪失ではなく、ギリシア法に基づく自身による放棄でなければなりません。
ですが、肝心のギリシア王家法には「王族は称号を放棄することができる」という条文がありません。したがって、この存在しない行為を行うには、国王(もしくは当主)の勅許が必要となります。
一般的には、Prince Philipps of Greece and Denmarkは、1944年にKing Giorgios II of the Hellenesの許諾に基づいて称号・王位相続権を放棄したと考えられています。しかし、これを裁可したギオルギオス2世の返書はないですし、そもそも称号を放棄したことを記す書類は明らかにされていません。
したがって、Prince Philippos自身がもし万が一称号を放棄した気になっていても、ギリシア法に基づいたものではないので、実際には放棄できていないと言うことになります。しかし、現実的には、「Prince Philip (Philippos)はギリシアの称号を使用していない」ということになるでしょう。これはつまり、いわゆるLady Louise Mountbatten-WindsorがPrince Louise of Wessexである事には代わりはない、ということと変わらないのかもしれません。
というわけで
この様に、1957年の’Prince of the United Kingdom’宣下以前でも、’Prince of Greece and Denmark’の権で’HRH The Duke of Edinburgh’が’Prince Philip’であったことにかわりはありません。しかし、1957年と言えば、’Prince Ernst August of Hannover’裁判の結審の次の年ですから、バッキンガムの「訂正」はこれをふまえた「ややこしいからはっきりさせる」という性質のものではないか、と思われます。
この記事は以前から書く必要があると思っていましたが、サウスアイランド公国自治領の記事に触発されて書くことができました。あらためて、公爵殿下とコメントを投稿されていたAMU氏に謝意を表したいと思います。
また、議論の推移はa.t.r.FAQと同Newsgroupのアーカイヴに大いによっています。
Prince Philippos of Greece and Denmarkが称号及び王位継承権
を放棄できていないとすると、子孫も権利を有する潜在的可能性がある
ということなのでしょうか。
これもちょっとややこしいです。
記憶が正しければ、ギリシアの憲法(か継承法)には:
1.王位継承者はギリシア正教の信者でなければならない
2.他国の君主であってはならない
とあります。
一つの見方として、チャールズ王子等は英国国教徒だから継承権を有しない、というものがあります。同様にチャールズ王子は英国の王位も継ぎそうな雰囲気なので、継げないような感じがします。
ただ、これはどのように意味をとるかで議論があります。
「王位継承者が」が「王位を継ぐ予定であるもの」なのか「今まさに王位を継承しようとする者」なのか。
ややこしいですが、前者は「ギリシア正教徒でなければ継承順位に並ばない」ことになりますし、後者ならば即位の前に改宗すればいいわけです。
これが人によって言い分が違うのですが、Velde氏等は後者を取っているようです。
もしそうならば王位継承権を有している事になります。
称号のほうですが、ウェイルズ公ら子息、及び男系の孫が
Prince/ss of Greece and Denmarkでありうるという
理解で構わないでしょうか?
はい、基本的にはそういう認識でよろしいかと思います。人[研究者]によっては反対意見もあるでしょうけども。