昔の新聞から探る「ウェルシュ・リヴァイヴァル」- Part 3
前回のポストで、ウェルシュリヴァイヴァルに関するやや揶揄を込めた同世代人のコメントを紹介しました。
さて、前回の記事でも触れたように、このリヴァイヴァルの中心を担ったのがカルヴァン派メソジスト(ウェールズ長老教会)です。
ウェールズの庶民の間では、メソジスト、バプティストなどのいわゆる非国教会信徒(ノンコンフォーミスト)が多く広まっていましたが、一方で教会組織としては国教会も健在でした。
しかしながら、この急激なリヴァイヴァルの「揺り起こし」には流石に、教会関係者・信徒の間に動揺がはしっていたようです。
当時ウェールズは国教会(The Church of England)のカンタベリー管区に属し、バンゴール、セント・アサフ、セント・デイヴィッズ、サンダフ、にそれぞれ主教区が置かれていました。
(※ちなみに、1920年にウェールズは国教会から分離し、「ウェールズ教会」となり、事実上国境としての立場ではなくなりました)
さて、同じくThe London Welshman 1905年1月5日号に、当時のセント・デイヴィッズ主教の立場が説明されています。
ウェールズの守護聖人である聖デウィ(聖デイヴィッド)縁の地であるティゼウィ(セント・デイヴィッズ)は歴史的にもウェールズのキリスト教にとって大切な地で、主教座が置かれています。

ジョゼフ・ジェンキンズやエヴァン・ロバーツが活躍したダヴェッド州(現在のケレディギオン州)はこの主教区の管轄地域でした。
ウェールズのリヴァイヴァル: ウェールズの教会関係者の態度
セント・デイヴィッズの主教がその管轄下の聖職者に当てた教書の中で次のように述べている。
「ウェールズの多くの地域で今、人々の心を揺り動かしている宗教リヴァイヴァルに、あなた方は真剣に関心を寄せておられることでしょうし、私からそれに関する何らかの助言を受けたいと思っておられるかもしれません。
私は数週間前、宣教師であるイースト・ガワーの地方教区長と、リヴァイヴァルの影響下にある同教区の聖職者たちと、この問題について協議する機会を得ました。その有益な協議で私が学んだことは、リヴァイヴァルに対する私たちの態度は、共感と注意深さと祈りの態度であるべきだという、私の以前からの確信を裏付けるものでした。
知恵と理解の霊、助言の霊、知識の霊という7つの賜物を持つ聖霊によって、すべての物事について正しい判断ができるように祈ることは、このように重要で、それゆえに困難な局面にある私たちにとって慰めとなるものです。「ウェールズで突然、霊的な現実が人々の関心の前面に押し出されたこのムーブメントは、私たちの心からの共感を求めるものです。私は、聖職者たちとの個人的な交流から、私たちの間に、より深い霊的生活の必要性に対する意識が高まっていることを知っています。
聖職者と信徒の両方がこのような必要性を感じていることを示す他の兆候として、私の前任者が教区宣教会を設立し、それが教区に浸透しつつあること、またその静かな働きに神の祝福があることを示す証拠が各方面から私のもとに届いていることを挙げることができます。現在のリバイバルの霊的な目的への共感は、私たち自身の霊的な必要性の感覚に比例します。
ウェールズは過去において、宗教リヴァイヴァルから偉大で永続的な恩恵を受けてきました。近年、無関心が急速に広まり、ウェールズ人の社会生活や個人生活に重大な危機が迫っていることを考えれば、かつての宗教的熱情の復活に感謝すべきでしょう。
私たちの不幸な分裂の根底には、すべてのキリスト教信者の間の根本的な霊的一致が潜んでおり、霊的な事柄における交わりの深遠な法則があります。そこでは「仲間の一人が苦しめば、全ての者が同じく苦しみ、一人のものが栄誉を得れば、全ての者が栄誉を得る」というものです。極めて重要で複雑な特別の主題が、良心的な確信の相違を痛切に物語っている今、現在のリヴァイヴァルが、すべての相違の中にあっても、ウェールズ人クリスチャンは、霊的な共感の基礎として、偉大な霊的必要を共通して持っていることを再認識させるのに役立つことを切に望んでいます。
それは、私たちに託されたいかなる原則も犠牲にすることなく、ただ一人の、そして唯一無二の御霊によってのみ成就されるのです;[エフェソ人への手紙第4章第2-3節に言う] 『謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい;平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。』 というものです。」(p.3)
後半はかなりキリスト教的な言い回しのために難解なことになっていますが、こういう感じに言わざるを得ないところに若干のジレンマを感じませんか?
国教会の立場で想像すると、特にエヴァン・ロバーツの説教なぞは教義的とか神学的とか、そういう正統的な方向を無視した云わば宗教的熱情の爆発であって、はっきりいえばあまり好ましくないでしょう。
ですが、実際に離れつつあった若者を宗派は違うとは言えキリスト者に戻したわけであるし、それがカルト的なものというよりも、社会がいい方向へ動く動機として作用している限りは、司牧的な立場としては歓迎すべきだ、というところでしょう。
実際にどのような「良い影響」があったのでしょうか?
同じ号の北ウェールズからの便りで、北ウェールズでの盛り上がりと大晦日の様子を伝えている記事があります。
ウエールズの大晦日
ウェールズでは数え切れないほどのリバイバル集会の賛美歌や祈りとともに新年を迎えた。夜通しの礼拝は夕方早くに始まり、夜半を過ぎても集会はなかなか散会とはならなかった。クリスマスと新年の期間中、北ウェールズではこの宗教ムーヴメントに明らかに弾みがついていた。このリバイバルは南部だけではなく北部からも起こったものではあるし、何週にも渡って続いているものであるとは言っても、この盛り上がりの原因の一つは、南部のグラモーガンシャー渓谷地方に出稼ぎに行っている北ウェールズ人たちが休暇で戻ってきているということがあるだろう。彼らは出稼ぎ先でこの熱狂にさらされていたからである。
リバイバルのさなかの年明けはいつものとは違うものでもあった。多くの地域から報告を受けているが、泥酔や浮かれ騒ぎが例年よりも少なく、警察の大晦日の仕事は普段よりも少なかったとのことである。(p.7)
当時は泥酔が過ぎたら軽犯罪として罰金が課される時代です。
ただでさえ、ウェールズ人は飲んで浮かれるのが好きな人達ですが(ステレオタイプ)、宗教的な盛り上がりが、人々の道徳心を呼び起こし、結果として社会の安定に寄与したとことがわかるでしょう。
そうなると、流石に国教会関係者も無碍にはできない、その事がわかるかと思います。
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